doracenaのブログ

人を知りたい

『生きた依存先』




 最近、自/殺/サイトとかそういう系を聞かないし見つからないなぁって思って話を。

お久しぶりですドラセナです。



夜に飲まれていましたので久しぶりの投稿、久しぶりの記事になるのですが、まぁ目に余るとこは優しく見て見ぬふりしていただけると幸いでございます。まぁいつだってクレームも文句も受け付けていないのですがね。




と、話を戻して。



ドラセナは自/殺/サイト最盛期(?)の世代なのですが、最近「あー死にてーなー」と思ってふと調べてみるともう欠片も見つからないんですねこれが。


それは検閲が厳しくなったとか私の確認不足とかで実はひっそりと息を潜めてるのかもしれませんが、まぁそこは置いておくとして、その代わりよく見るようになったものがあります。




_それこそ今日の話題『生きた依存先』です。



はて?と首を傾げる方もおられるかもしれませんが、これが最近SNSやゲーム板などてよく見かける単語でありまして。


薬とかやばい宗教とかではなく。

ただのゲーム内の恋人的な、決して画面から出てこない別のプレイヤー、画面越しの友達、ここではそれを『生きた依存先』と章させていただきます。



 いえ、それが悪いとか馬鹿みてぇとかはお門違いの感想、私的に花丸満点な生き方のようにも見えるのでございますよこれが。



生きることが苦しいときの必勝法は「考えないこと」いやまぁこれは持論なんですけどね、まぁそれにしたってそれがいっちゃん楽な生き方だと思う訳でしてね。一人では難しいことでも、それが生きた人間二人となると途端に簡単な出来事になる訳でして、二人して思考を放棄して、所謂『共依存』になって世界を作ってしまえばそれこそ中々出ることの出来ない楽園の完成でしょう?




あぁ、まあそう深く考えないで。



思考を投げやっても一緒にいてくれる人がいる、己の言葉を肯定して共感してくれる人がいる、それがどれだけ幸せで満たされたことかを最近の子は知っているのです。嗚呼羨ましい。




いっそ『こだま』でいいから己の言葉に肯定を返してくれる人が欲しい、なんて一度は誰しもが思うでしょう。それは悪いことじゃないし、気を抜ける相手がいることだって責められることじゃなくて、なんというか、ここまで書いてなんですがドラセナだって友達が欲しいです。セ/フ/レ?ソ/フ/レ?まぁなんというか、



何も考えずに肯定だけ返し返されの背中合わせの友人が欲しいのです。例えそれが爛れていようとプラトニックだろうともうどうでも良くて、


ただ誰かに肯定して欲しい、



















なんてわがままですね。




えぇ、今日も都合がいいところで。

どうかこの胸が中に詰まったドロドロごと刺し貫かれることを夢見てベットに入るとします。



P.S コメント、めっちゃ嬉しいです。

ねむれない

 今日はつまらない、という言葉が恐ろしい話です。急になんだと言われましても、ええそう言う話だと念頭に置いて読まれていただければ幸いです。



 私昔から多趣味でございまして。こうやって文章を書くこと、及び手芸や料理、読者にゲームにスポーツに至るまで、兄や姉がしていない事は取り敢えずやって見る事にしていたんです。

(それを多趣味と呼んでいいのかは多趣味の方に失礼かとは思いますが、この記事では名目上多趣味ということにしておきますね)


もしかしたら兄や姉と違った何か別の才能があるかもしれない、と手を出すのですが、私いわゆる不器用と言うやつで特に続かないし人並みには出来ても人以上に出来ないのが現実でありました。


例えば手芸。

祖父母の家にはかなり大きなミシンがありましたので、自分は幼いながらポーチやエプロンを量産しては行き場に困らせていました。

例えば料理。

私は特に好き嫌いがないのですが、姉は野菜が、父母はかなりの甘党だったこともありクッキーやケーキを焼いていましたが、どれもこれも完璧主義もどきの私からしてみれば失敗作でしかなく、作り終わる度に反省を挟むので辞めました。

例えば読者。

色んな考え方や世界を知れるので純文学からラノベに至るまで読み漁った時期はありましたが、本を読む姿が姉に似ていると周りから言われ、何となく居心地が悪くてやめてしまいました。


こう書き起こしてみると自身の飽き性に問題があるようですね。ええまぁだからなんだという話なんですけども。



 話を纏めますと、私はどうにも「つまらない」という感情が恐ろしいようです。周りから言われるにしろ、自身がそう思うにしろ関係なく。


「飽きる」「面倒くさいと思う」なんてのも私の中では類義語のようで、如何に相手から面白いと思ってもらえるかを重視する私にとって、「つまらない」という言葉は「死ね」と言われるよりも重たい死刑宣告なのかもしれませんね。


人の存在価値なんて様々ではありますが、だからといってつまらなく生きている人間に価値なんてあるのでしょうか。私はいつか私すら自分のことを「つまらない」と思う日が来るのではないかと怯える毎日であります。


 

 とまぁ今日はこの辺りで。

私は眠るのを頑張らねばなりませんので、

それでは皆様おやすみなさいませ。

空はあおい

 そういえば、なんですけども。

皆様見返したい相手など居ますか?

ええ突拍子が無いと言われればそうなのですけどね、私には見返したい相手が居ないのですよ。


今日はその話をしたいと思います。



 前回話した通り私には兄ひとり姉ひとりがいるんですけど、私はもっぱら同性の姉と比べられていました。比べる、と言うより私は姉の代用品だと思って生きていました。家族や周りにそんな意思がなくとも、私が周りの反応を伺う限りその生き方が正しいのだと自己完結して生きていました。


そんな生活も、気が付けば崩れ落ちていました。

話が急展開だ?まぁ人生なんてそんなもんじゃないんですかね。話を元に戻します。


何があったか、と言いますと。周りの期待に耐えられなくなった姉が精神病を患ったのでありました。躁鬱だとかストレス障害だとか、今どき探せばごまんと出るようなものでありますがそれも昔はかなり珍しく、あまり認知されていないものでした。


それは私が中学生の頃の話でありまして、いつか姉を見返してやる、なんて少し息巻いていた自分にはそのニュースがあまりにも大きなものでした。



 ええと、何が言いたいかと言いますとですね。


皆様は是枝裕和様の『歩いても歩いても』という作品をご覧になったことはありますか?映画版では樹木希林様が語るセリフに

「10年やそこらで忘れてもらっちゃ困る。

 憎む相手がいないだけこちらが辛いのだ」

なんてセリフがあるのですけれどね、

ええほんとその通りだと思いますよ。


憎む、復讐する、と言うのは負の言葉としては看板のように使われる事もあるあまりいい言葉では無いのですけれどね、それだけ強い思いというのは時として人を生かす原動力になるのですよ。


人にもよりますし、少なくとも私がそう思うと言うだけなんですけどね。でも、少なからずそれを原動力にしている人はいると思いますよ。




 話は戻しまして。

そうして見返してやる相手も居なくなった私が、雀の涙ほどだった私の人らしい心が挫けた、否。勝手に舞台から降りてしまった後と言えばそれはもう悲惨でして。えぇ、目も当てられない。


とまぁ今日はこの辺りで。

眠れぬ私は今日も彼は誰時を待つとしますかね。

それでは皆様おやすみなさいませ。